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【54】東日本大震災のときの記憶①
※これは被災した記録ではありません。僕の単なるメモです。
2011年3月11日から10年。月日が経つのはとても早いですね。
どうも悲しい哉、自分の記憶も薄れてきているのを感じます。私自身は地震の被害を受けておりませんが、当時のテレビの凄惨な映像の記憶はまだ頭の中にあります。
まだ記憶の断片があるいまのうちに、あの時 自分はどんな状況だったかここにメモしておこうと思います。
どうしても全部真面目に書くことはできないと思うので、そういった文章を期待する人は読むのをやめてくださいね、すみません。
当時、僕は中学生。みんな中二病真っ盛り、朝の挨拶は「昨日、また『世界』を救っちまったよ…」みたいな時期ですね。キモ。
場所は東北から遠く離れた片田舎。
3月11日(木曜日)の何日か前…おそらく土曜日かな?震度5弱の地震が三陸沖あたりであって、「ありゃ、東北?」と思ったのは覚えています。でも震度5弱って日本では時々は見かけるレベルの強さで、「ちょっと強いの起こったんだねえ」ぐらいの会話を家族としただけだったような。確か結局、あれは前震だったんですよね。
で、3月11日。実際に本震のあった午後2時46分、何をしていたか?ですが。
音楽室におりました。しかも学年全員。
全員といっても、そんなに多くないです。ギリギリ1クラスではおさまらないので、2クラスになったぐらいの人数です。音楽室というのは後方にいくと2段、3段と段差ができるので、机を運ぶのがめんどくさいですよね。
で 何をしていたかというと、学年集会。
内容は、、
ある生徒が学校で禁止されている「ケータイ」を持ってきていて、そしてそれを無くしてしまっていた という話。
なんかトイレから出てきたらなくなってたとかそんな話だった気がする。まあ使用禁止のブツを持ってきてしかも紛失するってのはおもろい。自らバレにいくスタイル。
で、コワーイ先生による内容の説明がされているとき、地震が起こったらしいんですよね。
「らしい」というのは、自分は正直感じていないってことです。周りのひとたちは「なんか揺れたな…??」みたいな感じだったけど、自分は言われて気づきました。
たしかに言われてみれば視界がぐらついたような…て感じでした。
とりあえずそんなもんだったので、説明再開。その10分後ぐらいに、学年主任で理科の担当の先生が入ってきました。
「いまテレビを確認したら、東北の宮城あたりで震度7とのこと。これから先生たちは緊急会議になると思います」
一瞬で教室がザワつきました。さすがにビックリ。さすがに震度7が、いちばん高い数値だということぐらいは知っている。
でも1995年の阪神大震災は知らないし、大きな被害の印象があった2004年の新潟中越沖地震ですら最大は震度6強。言われてもよくわからない。とりあえずとてつもないことが起こったことはわかりました。
とりあえず集会は解散。先生が緊急会議している間、全員教室で待機という流れ。
果たしてこれからどうするのか?
まだ3時頃ですから、親御さんが働きに出ている家庭も多い。すぐ帰るということにもならないんじゃないか、じゃあ学校にいつまでいるんだろう、みたいな話をしてました。
ちなみにぼくはこのときかっこつけて、
「震源地からもし津波が来るとしたら、どれくらいで到達するか計算してみるよ」
と言って紙になにやら計算式を書いておりました。おまえ数学の点数がダントツで低いくせにいいかっこしようとするのはやめろ。小6で習った「みはじ」の式で単純にしようとすな。「えっ そんなことわかるの?」と言われ嬉しくなったものの、結局あんまり答えがわからず適当にごまかすんじゃねぇ。
いやそのときはまじめだったんですが、いま考えるとただのかっこつけでした。右前は男子ですが、右隣と前の席は女子。ハイ以上。
そんなこんなで夕方、4時頃だったでしょうか。先生から出された指示は、
「帰ることができる生徒は帰ってよし。親御さんに必ず連絡をとって、自分の安全を伝えること。そして一人ではなく、誰かと帰る。家が空いていないなどの理由があるなど、残りたい者は学校に残っていい。」
確か徒歩通学で通っている人など、近い人は早めに帰ったような気がします。ぼくも友達と話したあと、徒歩で帰りました。
遠い遥か彼方ではおそらく大変なことが起こっているようだ。しかし自分は部活が終わったあとの暗い道でもなく、まだ青い晴天の時間、ゆったりと帰路についている、と不思議な感覚でした。
何もいつもと変わらない青空が、なぜか奇妙にも思えました。テレビで実際の状況を目にするのは、帰宅したあとでした。
つづく