これを書いている現在、2025年の夏である。8月5日~7日にかけて1人で広島を訪ねてきたので、そのことを書いていこうと思う。
目次
ようやく広島に平和学習に行く
広島に旅行で遊びに行ったことはあるが、平和に関する施設を訪ねたことはなかった。歴史にも興味があることだしいつか平和学習に行きたいなと思いながら、結局行かぬままだった。
2年前の盆に、田舎の祖父母の家に行ったときだった。いつぶりだろうか、祖父から戦争時代の話を聞いた。正直に言ってなんの話をしているのかはよく理解できなかったんだけども、戦時中の体験の話だった。やはり戦争については知らなければならない、それならやはり日本人なら広島に行くのが一番よいだろう。それもできれば、8月6日のヒロシマに。
と思ったものの、お金がないだのほかにやりたいことがあるだの、いろいろ理由をつけて結局2年が経ってしまった(やらない理由を見つけるのは得意なものだ)。そんなとき、このようなニュースを見た。
緊迫する中東情勢で、イスラエルとイランは報復に報復を重ねる状態が続いていた。そこにアメリカがついに介入し、イランの核施設を攻撃した、というニュースだった。
その理由として、「日本を降伏させるきっかけになった広島・長崎への原爆投下と同じことをするため」ということを語ったのである。
ここでは「アメリカは広島・長崎への原爆投下を正当化するのか」といった話をしたいのではなく、このニュースが自分を広島へ旅立たせるきっかけになったということを言いたいのである。
思い立ったが吉日である(祖父母の話から2年経ってるくせに)、僕の住んでいる東京都から広島までの交通を調べてみた。
広島に行くのにネックだと思っていたのが金銭面の問題なのだが、空路なら案外安いことが調べてみたらわかった。1ヶ月以上前に予約すればJALやANAを使っても料金は13000円くらい、自分の予想よりはるかに安かった。広島空港は平和記念公園のある広島市街からけっこう離れているが、その区間は1500円でリムジンバスが運行している。つまり片道で合計15000円ほど、これなら東京~新大阪を新幹線で移動するのともたいして変わらない。
また、8月6日まわりの広島は宿泊代がけっこうかかるのかと思ったがそうでもないらしい。5日は夜に広島にはいりネットカフェで数時間泊まり、6日は3000円で泊まれるゲストハウスを見つけたのでそこに泊まることにした。
心は決まった。
8月6日、早朝
今年は2025年、原爆投下や終戦の1945年からちょうど80年である。おそらく広島は盛り上がるであろうということも、自分を広島に向かわせるひとつの理由だった。
さてその節目の年であるから、平和記念式典は人が多く来場するだろうということは想像できた。例年は6時半に開場するところを、今年は6時にするらしい。一般席は1200席用意されているらしいが、どのくらいで埋まるのかはよくわからない。平日だけども例年より混みそうときいていたし、せっかく行くには確実に座りたいので、開場前にたどりつくことにした。
横川駅前を5時10分ごろに徒歩で出発する。夏だから空は明るみ始めているが、どちらかというとまだ夜の雰囲気だ。人もほとんどおらず、ただただいつもの朝が始まろうとしていた。通りに面した家のご婦人はおそらくいつものように庭の花に水をあげ、ご年配の方がおそらくいつものように散歩をしていた。
式典が開かれる広島平和記念公園の入り口につながる「平和大通り」の交差点に出ると、人通りが多くなってきた。みな向かう先はほぼ同じである。

5時45分ごろ、平和記念公園に到着した。「式典参加の最後尾はこちら」というプラカードを持った人が見えたので、そこから並ぶ。目の前にはすでに長い行列ができていて、先頭は見えない。「席に座れるのかな?」と不安になりながらもとりあえず並ぶことはでき安堵した。


列に並んでいる間に光が差し始めた。あまりに真夏らしい、よく晴れた朝である。
6時半ごろ、メインゲートを通過できた。席のほうを見るとまだまだ席はあるようで、無事座りながら式典を見守ることができそうなことがわかり安堵した。金属探知機のチェックも通過し、一般席のなかではおそらくそれなりに前の位置で着席することができた。
平和式典の開会は午前8時ちょうどである。それまでは1時間半、いってみれば待つだけである。水を配ってくれるブースや他の自治体からのメッセージが集められた掲示板のあたりを多少はウロウロしたが、ほとんどは席に座りながら本を読んで過ごした。ありがたいことにミストが噴射されており、頭上もテント(というにはあまりに大きいが)の屋根があるので予想以上に暑くなく、快適に過ごすことができた。
僕はどうも新陳代謝があまりよろしくないようで、真夏でも人よりは汗をかかない。身体的にはあまりよくないのかもしれないが、このような状況ではありがたい体質である。
また、席に座って動かない、このあまりに誰にとっても当たり前のことが、数年前までは僕には難しかった。皮膚炎で身体のどこかには傷がある状態で過ごしていた(一番辛いのは真冬だが、真夏もそれに次ぐ辛さだ)ので、じっとしているとその傷の痛みを感じてかきたくなったり身体を動かしたりしてしまうのである。
小学校のころである、卒業式でブロックの端の席に配置されたことがある。式の練習で座っている最中、皮膚炎によるかゆさからずっと身体を動かしていたのであろう、担任の先生に「じっとしていなさい」とお叱りを受けたことがある。この担任の先生はもちろん当たり前に叱っただけだ。ブロックの端の席は多少周りからは見えやすい位置であり、なにやら動いていると目立ってしまう。なので「じっとしていなければならない」のである。結局そのときはなんとか身体を動かさないように耐えてやりすごしたのだったと思う。
2025年の今ではそんなことを思う必要もなく、安心して読書に集中することができた。ふとそんなことに気づき、場所に似合わない笑みがこぼれそうになる。
今回持参した本は、「ヒロシマ・ノート/大江健三郎」である。ノーベル文学賞を受賞したことのある大江健三郎の、ヒロシマを数回訪ねたときのエッセイをまとめたものだ。
いつだったか本屋で見かけ、気にはなっていた。石垣島の一人旅のころから、一人旅のときには気になる本を持っていくことにしている。今回の広島行きは良い機会だと思い、旅の途中途中で読むことにした。
1時間ほど本を読んで、あとは開会までボーっとすることにした。どうも途中から真後ろの座席の学生たちの話し声が耳に入り、本の内容に集中できなくなっていたので本を閉じることにしたのである。まあ個人的にはもう少し静かにしてほしいというのが本音だったが、そう思うのは僕が1人でやってきて本を読もうとしているからであろう。それに彼らと同じように10代のころに友人と来ていたならば、自分も同じように話に夢中になっていたであろうし、結局は僕の思いはただの自分勝手なのだ。「いつか、学生の話し声すら気にならないほどの集中力を手に入れるのだ!」というおおよそ僕には無理であろう未来を夢見ることにし、適当な物思いにふけることにした。
考えてみると、イベントの待機中に友人とのおしゃべりに興じる–このようなありふれた幸せはいつから手に入れることができるようになったのであろう。あまりに想像するのはおこがましいのは承知ながら、あのとき広島で命を落とした若人の心について考えた。私が「当たり前に」享受してきた幸せは、80年前のこの場所では得難いものだったのである。

平和記念式典がスタート
8時ちょうど、平和記念式典がスタートした。原爆死没者の名簿奉納や献花が行われる。
8時15分、黙とう。平和の鐘が鳴る。
80年前の同じ時間、一瞬で街は破壊された。「街」–というのは言わずもがな施設だけでなく有機体を含めた全体のことであるが–その惨状はいかなる写真や絵の伝える能力をも超えたものだったであろう。例えば自分の生まれた街が、今住んでいる街が、かつてのヒロシマのようになったとした想像をするには、僕の頭は貧弱すぎた。
現広島市長の松井氏の平和宣言では、平和への思いを伝えていくこと、核武装に対する懸念が語られた。「平和」というとあまりに大仰な言葉という印象があるが、なにも世界平和の話だけではない。自分の身の回りを平和に保つこと、そのためにまずは「自らの心を平和に保つ」こと、それが身近にできることである。
松井氏の宣言のなかには、「たとえ自分の意見と反対の人がいてもまずは話をしてみることが大事」という一節があった。これが物理的な力に頼らない物事の解決方法だ。僕の中には「話をしてみる」ために心がけていることがある。それは「相手を立場で否定しない」「相手の人格を否定しない」ということである。たとえば、社会に出るととりわけ「ステータス」なるものが重要になるが、そういったものの違いで相手を否定すると議論が成り立たない。大事なのはその人の「言っていること」であって、その内容について考えることが肝要だと思う。
その後の広島市の小学生による「平和への誓い」では、こんな一文がある。
本当は辛くて、思い出したくない記憶を伝えてくださる被爆者の方々から、直接話を聞く機会は少なくなっています
傲慢にも「被爆者が当時のことを伝えてくれるのは当たり前だ」と思ってしまうのは、僕がそのような機会を持てる時代に生まれたからである。そして『ヒロシマ・ノート』で書かれているように、裏にはたくさんの「思い出したくもないし語りたくもないから、世間には姿を見せない」人々がいるのである。そしてこの人々を決して批判するなどということはもちろんできない。被爆者の方々それぞれの思い、それは本当にその人しかわからない。僕のこの文も、そんな気持ちの表面をなぞっているにすぎない。せめてできることは、そんななかで思いを語る決断をした方々の言葉を自分の頭に刻むことである。

資料館に向かう途中、学生の紙芝居で立ち止まる
予定通り、1時間で平和記念式典は無事に終了した。いったんマクドナルドへ行き朝食を食べながら、号外の中国新聞を読む。少し仮眠をして、11時に平和記念資料館の観覧を予約していたので向かった。
平和記念公園を南北に縦断するその最中、学生のグループを見つけた。近づいてみると、どうも紙芝居を英語で順番に音読しているらしかった(こういうのは学生のときにときどきしたものだが、なんていうのだろう?)。

どうも内容は佐々木禎子さんのものである。佐々木禎子さんは、広島の原爆を2歳のときに受けた少女である。この後の平和記念資料館についての記録でまた書くのでここでは彼女についての詳細は割愛するが、平和記念公園の中にある「原爆の子の像」のモデルである。
その紙芝居の前では、多くの外国人が立ち止まって聞いていた。学生たちが読んでいる英文の資料には自分でとったメモや下線が見える。現実的には、この炎天下の野外で英語で内容を伝えるにはよほどの通る声が必要なのが難しいところだが、母国語でない言語で挑戦するその姿勢に感嘆した。紙芝居が終わり、多くの拍手が送られていた。
原爆の投下から長い年月が経ち、平和式典でも次の世代へ思いをつなぐ大切さが語られていたが、外国の人々に伝えるのはさらに難しい。なにしろ「日本語」というのが諸外国の人々にとっては大きな壁である(日本人が外国のことを学ぼうと思ったときも、同様ではあろうが)。どういった方法があるか、ふと考える。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回は平和記念資料館を観覧した記録を書きます。