【81】2025年8月のヒロシマを訪ねる(2)

広島平和記念資料館

以前の広島を訪ねた記事の続きです。

「広島平和記念資料館」を観覧する

 さて平和記念公園を歩く途中で学生の紙芝居を観終わったあと、「広島平和記念資料館」に到着する。

平和記念資料館のエントランス
平和記念資料館前。混雑しているので誘導に従う

修学旅行で定番の場所…なのだろうが、あいにく自分は修学旅行で広島に行ったことがない。これまでは観光の旅ばかりしてきたので平和学習といった(世間では「おカタイ」といわれる)ものをもっとしたいなと以前から思っていたが、結局 社会人になってからもしばらく経った今になってしまった。世界唯一の被爆国である日本に生まれた者として、やはりこの場所は見ておきたい。

今さらだが、2024年のノーベル平和賞を「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」が受賞したのも僕を広島へ向かわせるひとつの理由になったのは言うまでもない。1945年から80年経った今、被爆者の方々の高齢化は進んでいる。かといって「なにかできることを」といっても、あまりに「重い」テーマであることは違いなく、「当時のことを教科書の上でしか知らない僕が何を語っても軽すぎるのでは…」と思いながら書いている。

 資料館の中は撮影は可能であるが、その画像データはあくまで個人的な保存だけが許可されており、公開することはできない。ここからは文字が多くなることをお許し願いたい。

大きなコロナ禍が去り、終戦80周年の8月6日のヒロシマだけあってたくさんの観覧者がいた。ただ平日であるので、観光で来た人々にはインバウンドが目立つ。
思うのが、果たしてこのようにして資料館を見学した外国のこどもたちはどのような思いを持つのだろうか。この広島の旅 以降、友人に資料館の話をしてみると「修学旅行(など)で行ったことがある。小さいこどものときに見るにはあまりに衝撃的で、今も忘れられない」という反応がけっこうあった。修学旅行はある程度 旅行地について学んでから行くが、完全な旅行気分で来た小さいこどもたちにはどう映るのか、想像すると少し怖くもある。

予約して来てるわけだが、よく考えたら2泊3日なので翌日に訪問したほうが間違いなく人は少なかっただろう。まあ一人旅のときはいつもそんな適当な予定の立て方なのはいつものことである。のんきなものだ。

本館に入る、絶句する

 展示の導入として、広島の街を俯瞰した模型が最初にフロア内に展示されている。

原爆の熱線により市内中心部の家屋が発火し、続いて市内の至るところで使われていた火気などを原因として大火災が発生した。爆心地から半径2キロ以内の地域はことごとく焼失。
(ウェブサイト『広島原爆の視覚的資料 -1945年の写真と映像』より)

半径2kmが「ことごとく」というのだから、この平和な日々ではあまりに想像しがたい。2kmというと成人男性が歩いたとして20分ぐらいの距離だろうか。そんな範囲が一瞬にして?

その模型のあとは、いよいよ数々の絵や写真を観覧する。

言いようのない涙

 最初に僕の目を捉えた写真は、少女がこちら(カメラ側)を見つめるものだった。明らかに悲しんでいるとか苦しんでいるとわかるものではない、なんともいえぬ表情でこちらを見つめていた。
その瞬間、涙が流れたのを覚えている。その写真の少女の感情や肉体の感覚に共感したというのはあまりに傲慢(その少女の感情が、日本語の表現できるレベルを超えていたであろうことは想像に難くない)で、自分でもよくわからない感情が溢れ出した…のではないかと思う。

その少女の画像が映っているウェブページ

そこから続く熱線などを表現したイラストや亡くなった人たちの来ていた服の展示など、ひとつひとつ立ち止まって思いを馳せていては、自分が立っていられなくなるような、座り込みたい気持ちに駆られる。その日も友人や家族と他愛もない会話をしていたであろう人々の生活が、一瞬にして変わってしまう。その瞬間を想起しただけで、胸が苦しくなるのである。

その日から救護をスタートしていた人たちがいたという事実

 一方で僕が胸を打たれたのは、ヒロシマに原爆が投下されたその日から救護に当たった人々がいたという事実である。「人の助け合いとして当たり前だ」と思うのは簡単だが、果たして自分にそのような行動がとれるだろうか。皮膚が焼けただれ、大火傷を負った人たちに対して、何かができると思えるだろうか。それも自分の身体や、家族の心配をしながら、だ。

救護所の画像が載っているWebページ

原則、僕は自分の体(肉体的にも、精神的にも)のことを優先することにしている。自分の体を正常に保った上で、人を助けたり協力したりできると考えている。もし体調が悪かったりすれば自分の体はすぐにサインを送ってくれるので、そういったときは無理に人と会ったりせず自分だけの時間を過ごす。それが自分にとって最良のストレス軽減の方法のようだとわかったのは社会人になってからである。もちろん「そういうときは人に会って話を聞いてもらうのがよい」という人もいるであろうが。

しかしこの1945年の8月6日は、そんなことも言っていられなかったであろう。自分の体も一大事の時に、人を助けようと思えるか、そして実際に(医療に関わる人間でなかったとしても)行動に移せるか。救護所で救護に当たった人たちの写真や、トラックで郊外に人々を運んでいる写真を見て思うものだった。

実際に被害に遭った人たちの展示コーナーへ

 そのあとは原爆の被害を受け、亡くなってしまったり重度の病気、障害に苦しんだ人たちの悲痛な叫びをリアルに展示で見ることができるコーナーに移動する。

ひとりひとりの人生を目の前でなぞっているような感じなので、よりリアルに原爆の被害がどのようなものだったか感じることができる。自分と同じぐらいの年齢の人もいれば、本当に小さい子から親の年代の叫びまで文字で見ることができる。

どの人も家族に対しての愛があり、その愛を叫んでいる。子は親に会いたい思いを叫び、親は子に会いたい思いを叫ぶ。「人間らしさ」とは、やはり生の人とのつながりにこそ感じられるのだと思う。それはきっとものが溢れた現代でも変わらない。

自分が大きな傷を負っていながら、家族に宛てた手紙に「わたしは大丈夫だけど、あなたたちは大丈夫?」とあったり、被曝して寝たきりになりながらも「いつかわたしが働きに出て、家族を楽にさせる」という少女。現代に生まれた自分としては、あまりに大人びている印象の展示ばかりである。

そして「大火傷」「皮膚がただれ」…こういった原爆に関する資料でよく見るワードは、どうも僕には特に印象深い。生まれた時からそれなりのアトピー性皮膚炎でずっと戦ってきただけに、肌の病気や傷というものに敏感なのだろう。僕のレベルでも風が当たるだけで肌が痛いものだった。果たして原爆の被害に遭った人たちの痛みは、と想像しては、わかるわけがないと思う繰り返しである。

ただ自分自身の肌に関しては、別の記事で書いたようにかつての痛みはおおかた和らいだのであまり意識することが今ではない。「あんなに苦しんだ記憶も、こうして忘れていくものなのか」とふと思う。
しかし精神的に辛い記憶というのは自然に忘れることは…なかなか難しいものであろう。原爆の被害に遭って亡くなった人も、そのような人たちを見送って今(1945年以降の人生)を生きている人たちもずっと苦しみを抱えている。どうもうまく言葉にできないが、生き残った人たちの写真を見てそのようなことを思う。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回はもう少し平和記念資料館のなかを見て、記念公園を歩きます。

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1985年あたりに生まれ、武庫川大学歴史学科を卒業。いくらでも寝ることができます。